国際競争力、否、”国際協奏力”と学校教育


根岸 秀孝
数学教育を考える会 2000年1月 於 学習院大学 提示原稿

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“協奏力”?! ?
国際化社会における各国の競争力が話題になるが、むしろ、他国との“協奏”という見方、考え方が必要になってきている。 国際政治は葛藤から、協調の時代へ。 欧州にみられるように、国別の経済競争から脱し、ユーロドルの統合といった協調へ。 企業活動もナショナリズムを超えた国際化が急増している。 これを“国際協奏”の時代として、この流れにおける教育を考えてみる。


“協奏”の条件
協奏曲を演奏する音楽家達は各国の言語をこえて、五線紙上の音符、すなわち、見事な国際共通言語を使っている。 この共通言語の存在が故に、音楽の世界では古くから国際間の交流と、競合があった。 相当に高いレベルでの公平なコンペティションがあり、そのことが、優れたタレントを世界各国で生んできた。 また、世界中の人々がそれを享受している。
数学という学問の世界でも同様なことがいえると思う。 こんにちの数学はまさに、国際共通言語といえよう。 A国のa数学者の理論が、B国の b数学者によって高められ、発展し、社会に貢献するという話は実に多い。 200年も前に生まれたフーリエの数理が携帯電話等に広く使われている半導体DSPに活かされている。 ブラック・ショールズの偏微分方程式による金融派生商品も然りである。
数学は言語のひとつ、コミュニケーションのメディアという見方からすると、英語、日本語等いわゆる言語力はミニマムであっても他国の人と議論ができる、ということも聞く。 数学学習をとうして得られるとされる構成力、論理性、論証力、説得性などはまさにコミュニケーション能力そのものとも云えよう。 しかしながら現実をみれば、この国際社会で“協奏”していくには、その共通言語である英語無しには考えられない、との言及に反対することは困難であろう。
このような見方をしてくると、これからの“協奏力”として必用なのは、数学の素養と英語力と言えそうだ。 そして、この重要な素養、活用力に関し、こんにちの学校教育において、いろいろな憂慮が存在する。


国際社会
これまでの日本企業の活動をみてみよう。 特にその大量生産・消費財産業を。 どのような進め方が内部で進んでいるかを外部から問われることもなく、とにかくその結果−製品が良ければ世界中で購入され、喜ばれてきた。 企業運営そのものにおいては日本流という習慣がわりと通ってきた。 そこには行政による規制に守られていたという点を無視できない。 また、金融界、投資社会の伝統的な習慣もあった。 投資に見合った利益という点では我が国の遅れは相当なものでる。 それにもかかわらず、バブル経済の頂点においては、日本企業の諸外国での派手な振る舞いが目立った。 そして、その崩壊から何年か経った。 企業の国際化が進んでいる先進諸外国からの圧力、経済危機から抜け出そうとする政治力によって、まずは金融界の規制緩和が起きた。 そして、一気に外国資本がはいってくる、否応無しの企業統合、国際企業の参入、企業の国際化が沸騰した。 国際“競争”というよりは、国際“協奏”が求められている。 広い自由競争のなかにあって、金融界では先ず新たなサービスを企画、検討することになる。 まさに数学基盤の企業活動である。 はたして、十分な人材が育成されているのであろうか。 他銀行との差別化を、金利に、サービス商品設定にといった独自性を許さない規制があった。 この2,3年の新入社員のなかにはレベルが高いとされる私大の経済学部からの卒業生が。 その数学力は?
前述の“結果の良さ”を勝負としてきた製造企業であっても、国際資本が入ってきた。 となると、企業運営プロセスそのものに、投資に見合う利潤に対し、外国資本からの注文がつく。 もはや、これまでの仕組み、習慣ではコミュニケーションが取れなくなっている。 “五線紙の音符”でもって主張を唄わなければならない。 数学基盤とコミュニケーション能力が問われる。


学校教育への憂慮
いろいろな学会で、理数教育の憂慮が語られている。 現実の社会活動、経済活動との深い関係を重要視してこなかった各教科学習。 極々一部ではあるが、教師職にある者が起こす社会規範、法に背いた行動の報道。 親の指摘、訴えを恐れての温和な学校の規律と指導、親と学校の信頼関係の欠如。 受験がゆえの学習の偏り。 子供にとっては学校社会にたいする失望。 枚挙にいとまが無い。 そうしたなかで、これまではそれぞれの立場、立場で、他の立場への“人に指差し”の批判が横行してきた。 しかしながら、つい最近になって、“自分に指差す”発言、行動、議論が多く見受けられるようになってきた。 実に、本来の方向、望ましい動きになりつつある。


解決策のいろいろ
米国にジュニア・アチーブメントというノン・プロフィット団体がある。 日本でもその活動がこの4、5年前から始まった。 これは高校生までの学童・生徒を対象に、社会活動、経済活動の体験プログラムを用意し、教科学習の意義、その社会・経済活動との深い関連を、出来るだけ早い時期の体験から認知できる機会を企画し実施する活動である。 著名な米国企業がスポンサーになっていて、また実際に企業人の奉仕活動も含まれる。 経済活動体験のひとつには、シンプルな構造ではあっても、商品の企画、マーケティング、製造、販売を投して、企業経営を学ぶというプログラムがあるという。 その体験のなかで、“あれ! これ習った筈の数学のアレが必要だよ”というような子供たちの気づきがあり、自らその復習をすることになる。 まさに“自ら学ぶ力をつける”のモデルといえる。

これも米国の例だが、数学教育ではT^3の活動がある。 Teachers Teaching with Technology として、約10年前にオハイオ州立大の数学科研究室を中心に始まった教師研修活動である。 この3つのTをとって最近は、 Teachers Teaching Teachers ともいわれているように、教師が教師を啓発し、新しい教育を探るためお互いに研鑚をしようという活動である。 そのペダゴジカルな主張に、大事な視点がある。 子供の潜在能力はすざましいものがある。 生徒自らが、探求し、思考の機会があれば、高いレベルの発見力を示すという。 数理は教えてもらって覚えるものもあろうが、 相当に高度な数理を子供は気付くという。 そのためには、授業、学習のプロセスを、ゼロ・ベースで再考し、新たに構築しなければならないし、そこには道具も必要になる。 T^3指導者はいっている。 新しい教師像は“教える人”から脱皮して、”facilitator”、 “guide”、 “supporter”、“co-worker”、”learner” になることであろうと。 この改革活動はNCTMスタンダードにも大いに影響をおよぼした。 我が国でも T^3の年会議が過去3回催され、その活動が盛んになってきている。 この動きを単に、グラフ電卓を使う数学教育の研究会というような一部の見方があるようだ。 ここに参加する現場の先生方は、数学の授業をどう工夫していくかということに何年も努力をしていて、そのことを、自分の教授法というか、使命をどう実現しようか、その解決策を模索していた。 そして、T^3の主旨にふれ、そこにいわゆる“enabler” としてのテクノロジー活用の価値を発見し、実践的な解決策としてテクノロジーを活用している。 それまでの想いの実現策として。 あくまでも教育改革とその哲学が先であろう。 テクノロジーがある、さあどう使おう、では逆である。
関心はあるが受験があるから、もっと時間があれば、という先生方も少なくない。 その先生方の改革への切迫感の程度が新しい行動を起こすか、否か、になっている。 今までどうりにしていることが心地よいのは確かである。 その一方、理数の受験に強いと評判の高校で、積極的に新しいかたちの授業を、数式処理ソフト搭載のグラフ電卓を活用して実践している先生もいる。 要するに学習の方法というか、センスを子供たちに与えることが大事で、そのことは受験用の勉強にも充分通ずるのだという。

数学検定の応募者が年々増えてきたといういい話がある。 親に勧められてという子もいるだろうが、子供達の向上心はまだまだ健在だ。 単に難問を説くというのではなく、数学的考え方に大事さをおいての設問に苦労するという。 大学入試試験とは違った性格で生徒間のコンペティションがあることは頼もしい。
文部省では、学力の達成度をはかるテストを検討するという。 その内容によっては、十分に教育改革を刺激し、新しい学習方法が喚起されよう。 また逆に、出題される内容によっては、これまでのセンター試験で指摘されるようなことの繰り返しにもなり得るではないだろうか。 出題者の教育哲学が、新しい学習の形を生み出すことになろう。

ドロップアウトする高校生のなかには、学校に意義を感ずることはできないが、大学進学の意志はある。 そこで、大学受験資格検定試験で対応しようという子供たちも増えているそうだ。 これもなかなか頼もしい生き方ではないだろうか。 自分で自分を制する力、それこそ、“生きる力”である。 また、高校卒業ど同時に、今まで自分で決めた進路をまっとうするために専門教育を受ける。 そして、その分野のプロとなりたい。 これも素晴らしい。 要するに、Diversity の大切さを生徒達自らが掴んでいるのである。 文部行政が唱える基本姿勢は正しいが、教育界での対応に時間がかかるうちに、若者達は自分で先に行動をおこす。 こうした状況は解決策として社会が用意するまえに自然発生的に動いているともいえそうだ。 子供たちは敏感だ。


国際協奏力の基盤 ‐ 学校教育
国際企業に在籍して長い筆者は、各国の若者、プロフェッショナルと仕事をする機会が多い。 フランスの、イギリスの、ドイツの、米国の、中国の、台湾の、韓国のと、それは多彩である。 フランスの若いスタッフ(ビジネス系)の数学力の高さに関心し、理系ではない米国のスタッフが数学を高校時代、大学といかに勉強してきたかを知るにつけ、つい、身近にいる経済系卒業の日本支社の新人と比較してしまう。
ビジネス判断、投資にたいする見返りの確実・不確実性、可能性の是非、動向予測、各国の進展の解析、まわり中の仕事という仕事全てに数学の素養が求められる。 これに関しての議論、説得、伝達、交渉は、全て国際共通言語 (数学基盤) による展開だ。 最近、自動車企業の雄の一社であった日産に、フランス企業ルノーからの資本が入った。 上層部の重要な会議は英語で進められているそうだ。 議題毎に大量な数値解析の結果が示される。 PCのスプレッドシートを扱えるだけでは意味はない。 数値を伴った論理的、解析的素養が必須な世界だ。 この“協奏力”があって始めて、国際社会において、 望まれる“生きる力”があるといえる。
2000年の今年は、数学教育の世界会議ICME9が開かれる。 学術界においても、“国際協奏力”が求められよう。

(Texas Instruments Inc. E&PS東京事務所、日本数学教育学会会員、早大数学教育学会会員) (HN) 
     



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