1.理数教育はいつ始まるのか?
ある小学校の先生が何処かで書いていた話である。校庭の花壇で理科の勉強。草花の育ち方、これに関係する昆虫の役割と、授業の内容は広がっていく。恰好の教材としてミミズが土の中から現われる。ミミズの役割は? ある男の子がミミズを捕まえて興味深く触っていた。その日、下校間際にその子が真顔で教員室に来たそうだ。「先生、おねがいがあります。きょう、ボクがミミズを触ったこと、絶対にママには言わないでください。ゼッタイに。」
この話の中に、今日抱えている理数教育の問題点の一端を見る。入学前、入学後に関わらず両親の影響が教育の始まりということはよく言われている。おそらく、くだんの児童は常日頃、母親から云われているのだろう。「それは汚いから触っちゃダメよ」、「汚いってどうして分からないの」、「危ないっていつも言ってるでしょ」、「怪我したらどうするの」等々。そして、一度、大変な勢いで叱られた経験があって、先生へのお願いとなったと想像できる。
潜在的好奇心を育む環境と機会が大変な勢いで無くなってきている。技術革新が故の生活の変化がある。経済的余裕も家庭生活を変えてきた。テレビ等の情報媒体が故の影響、家庭でのゲーム機の普及。そうした社会状況の変化とともに、子育てに関しての両親の態度も大いに変化してきた。学校での生徒の怪我に対する必要以上の安全対策も遠因である。よく云われる“ナイフで鉛筆削りが出来ない”子供たちが大勢いるという。
一昔前、“火を燃やす”体験が子供たちに、大いなる不思議と好奇心をもたらした。原始時代から人と動物との差を言及するに便利なのが、火を使えるか、使えないかの差異である。実に根源的な人の活動であり、宗教にも結びつき、そして、科学の出発点ではなかったか。
もうひとつの問題点は子供たちの遊びの変化である。昔の遊びには科学が見え隠れするものが多かった。ベーゴマに強くなるには、感覚的に科学的アプローチをしていた筈だ。ケンダマ、凧揚げ、模型飛行機、鉱石ラジオ然りである。小さな火傷、切り傷を体験する機会は無数にあった。そうした体験のなかに工夫が育まれていく。小さな危険にはほど遠い現在の生活のなかで、科学心を育む難しさが存在する。便利な生活が、科学教育には不便な状況となっている。
「どうして、そうなるのだろう」「何故?」という“気付き”の機会の喪失時代である。この状況に加えて、受験対策としての学習体験が、現在の“ねじれた”理数教育を培っている。
では、その対策は? 昔の不便な時代に戻るわけにはいかないし、これから両親を教育し直すのも不可能に近い。
毎年行われる高専対抗ロボットコンクールをいつも素晴らしい示唆を感じながら観てきた。生活環境は変化しても、人間の素質そのものは20年、30年で変化するものではない。子供たちのもつ潜在能力と好奇心を信じ、これを引き出す以外に新しい理数教育の改革は考えられないという立場をとり、以降、本稿を進めることにする。
2.教科の融合- 教えの都合/学びの都合
総合学習が議論される何年も前、1990年代の前半、米国のある高校で面白い授業を参観した。35名ほどの教室には2人の先生がいる。いわゆるTTというかたちでもある。しかしながら、この2人の先生の教科は違っていた。それぞれ数学と物理である。数学、物理への関心を高めるための試みとして始めた授業だったが、参観した時すでに1講座として定着したものとなっていた。
そこで、取得単位の仕組みを変えたのか?との質問に、その先生は笑顔を浮かべてこう言っていた。「生徒のためと思って新しいクラスを組んでも、学校の管理者たちに、単位取得システム、シラバスの変更承認を求めていてはいつ実現できるか分かりません。そこで、単純にこの1講座の単位の半分づつを、それぞれ数学教科に、物理教科に記録することにしました。生徒たちの評判は上々です」。
授業の詳細内容を説明するまでもなく、この組み合わせからくる必然性とその効用は明白であろう。現象の観察、実験によるデータ収集、その解析に数学を使う。この探求、現象の観察から一般化される物性数理の認知。実に素直な授業設計である。グラフ電卓と簡便なデータ収集機器がこの授業を可能としていた。
本研究メンバーが所属する金沢工業高等専門学校では、5年前にスタートした“創造設計”教科で、上記のクラス同様の授業設計による実践が毎年報告され、その効果が確認されている。同様な新しい理数授業の試みは、本研究報告書にあるように、東京学芸大学附属高校大泉校舎、東京学芸大学附属大泉中学校、東京大学付属中等学校、静岡県立御殿場南高校、茨城県立水戸第三高校、岡山市立岡山後楽館高校で、この3,4年にわたり、盛んな試みが起きている。これらは、新教科としての総合教科のよき前例ともいえよう。では、何処にその効果の重要性を見出すか、そして、そのことが如何に今後の理数教育の改革、改善に関わるか、本稿の第4項に記述する。
3.他国でみられる理数教育の改革
米国の中学・高校では、古くから“フィールドワーク”、あるいは“プロジェクト・アサイメント”等と称される課題学習がある。テーマが与えられる場合、生徒自らが設定、あるいは選択する場合もあるが、基本的な流れとしての典型は概ねこのようになる。
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テーマ、その範囲の確認 |
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課題、目的の確認、手順計画、仮説設定 |
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調査、データ、情報収集 |
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情報の吟味、考察、整理、探求、分析 |
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仮説の検証、発見事項の整理、構築 |
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リポートのまとめ、その発表準備 |
この流れで、ある場合は1週間、1ヶ月、あるいは1学期間のアサイメントとなる。この学習形態は、理数科だけではなく、社会科系、語学系でも行われている。まさに、文科省設定のカリキュラムでいう総合学習の基本形である。
この形の学習は、これまでの講義スタイル、知識、数理の解説、演習、理解の度合いを測るテストという伝統的授業とは、学習者にとって根本的に違った行動となる。整理すると;
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従来の授業 |
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新しい授業 |
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講義・解説 |
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自主的調査・情報収集 |
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教師主体の進行 |
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生徒主体の行動 |
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教え |
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学びへの仕掛け |
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教えられる |
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気付く |
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受ける授業 |
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自ら参画する学習 |
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人ごと |
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自分ごと |
このことを、例えば、物理、化学の授業に当てはめてみる。おのずから実験、観察を重要視した授業となる。一つの典型としての理科実験を考えてみる。教室の教壇付近の実験テーブルで、何人かの生徒がボランタリーとして実験を実行する。他の多くの生徒たちはそのテーブルを囲み観察する。この場合、観察者といっても、それは傍観者に陥ることになる。教科書とテレビ画面で実験を眺めるよりは、勿論その臨場感は意味がある。しかし、遠巻きにして眺める生徒たちにとっては、その実験を傍観することになり、あくまでも“人ごと”であって、当事者として“自分ごと”にはなり難い。学習で関心が高まるか、そうでないかの重要な分かれ道は、その学習行動が人ごとか自分ごとかに大きく左右される。自分でさわり、自分で試行錯誤するなかで、「へぇー!」、「なーるほど」、「そういうことなの」という感受が肝心だ。
理科実験で、かつてMBL (Micro Computer Based
Laboratory)と称し、PCベースのデータ計測機器を使う実験がある。単に現象観察に終わらず、その現象を計測し、そのデータから数理的分析、考察を狙っていた。素晴らしいテクノロジー活用の開始である。ところが、その実験装置と計測機器はたいへん高価なものであると同時に、操作、移動が容易ではなかった。勢い、クラスで一つの実験となる。前述のように少数の当事者と多くの傍観者を生む実験となる。
このジレンマは、グラフ電卓とCBL
(Calculator Based Laboratory)の活用で解決されることになった。10年を超えて、数学の授業で浸透の著しいグラフ電卓を理科の先生たちが認知することになった。しかしながら、彼らの最初のころの印象は必ずしも確信的なものではなかった。先生たちの間でPC
は極普通の道具である。彼らにとって「電卓レベルの計算精度では」、「画面が粗すぎて」、「ソフトウエアが」といった批判もあった。ところが、グループ毎のCBL・センサーのセット、生徒各自のグラフ電卓という道具立ての効用は、先生たちの予想を超える成果を認知することとなった。データ分析、探求、関数への回帰という活動を、“自分ごと”として各自が体験する。さらに、同じ実験のデータセットはそのグループの数だけ吟味できる。実験データ収集で必ず起きるバラツキのなかから、その一般性を見出す素晴らしい機会となる。生徒たちの関心、潜在する感知力、好奇心と工夫、自主的な問題意識、問題設定、こうした何れの観点からしても、生徒たちの能力の凄さに先生たちが感銘することになった。先生が生徒たちに教わる機会である。
全米科学教師協会(NSTA)毎年3月の年次大会の研究発表、会場の展示には思わず目を見張る進展がみられる。
他の国々で起きている理数教育改革をみてみると、そこには相当近い共通点がある。
それらは;
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社会生活における理数教育の意義理解 |
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数学的、科学的見方・考え方の養成を大事にした問題発見力、解決力 |
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身の回りの現象を題材にする学習を通し、理数科への関心高揚 |
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これらを実現するためにテクノロジーを積極的に活用 |
こうした狙いの解決策として、グラフ電卓・CBLの活用認知が年々高まってきた。
ここで、中国、韓国の状況を見てみる。上記の改革の共通点に従って、中国ではグラフ電卓活用の数学授業が、中学校で2003年春から,
テクノロジー活用を前提とした新教科書でスタートする。この動きにあわせて、上海教育委員会では、物理の副読本的教科書が準備され、データ収集を大事にした実験物理が始まる。
一昔前の中国は、日本の教育行政、システムに関心があったようだが、昨今は、米国、カナダ、欧州のそれをたいへん熱心に参照している。日本を飛びこして。産業界と同様に、この国の進展はまさに、“ジャンプ”である。
一方、韓国の事情は、中国に比べると少々遅れてはいるものの、第7次学習指導要領では前述の共通点を狙いとしてスタートし、テクノロジー活用の理数教育が求められている。現在、一部の科学高校、一部の師範大学、一部の中学・高校でグラフ電卓・CBL活用の実験授業が始まり、パイロット校も設定されている。
さて、わが国の事情は?ということになるが、本稿で言及するには情報不足と紙面の都合もあり、他の機会を待つことにする。
4.何が大事なのか?
前項で、何が大事なのかの大筋を概観した。
ここで、その重要な点を整理すると、一言で云えば、教師の役割の変革に尽きよう。
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“教える”態度から、“学び”の仕掛けへの工夫 |
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生徒からの発信を最大限に活用 |
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生徒同士の議論、質疑の活性化と共有化 |
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生徒の学習が“自分ごと”に感ずる授業運営(仕掛け) |
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授業そのものの“劇場化”(感激・感動を味わえる授業進行に即したシナリオ) |
これらの要点の全ては教育学、教育心理学、授業論等の学術的研究で言及され、いわば、授業運営の常識であろう。さらに、理数教育に限らず他の教科でも共通する。しかしながら、この分かりきったことを実際の授業で観察する機会は驚くほどに少ない。筆者のこれまでの、米国、韓国、日本での相当な数の授業参観の経験から、そう言及せざるを得ない。
子供たちの感知能力は鋭い。いろいろな工夫をして、先生自身がワクワク感ずるような努力を重ねている授業を生徒たちは敏感に察知する。何年もの間、同じ授業を、教師のペースで繰り返している先生の背中を生徒たちはどう見ているのだろうか。
本研究会メンバーの先生たちの授業を何度も参観した。彼らの授業実践論文で拝見すると、そこにはなかなか素晴らしい教材が工夫されていることを知り得る。しかし、それ以上の価値、大事な点がその授業の進行のなかに観察出来る。これこそが、授業改革なのである。すなわち、本項で述べる教師自身の変革が起きているのである。筆者は、授業参観の折、決して教室の後ろには立たない。何故ならば生徒の顔が見えないからである。可能な限り、教壇に近い場所で参観する。生徒の顔が刻一刻と変化するのを観察するのが実に興味深い。生徒の顔が、目と目が生き生きと輝く授業は本物で、まさに、“学び”の場のうまい設定に感心するのである。
テクノロジーが発達しコンピュータが学校設備の常識となり、インターネット、ブロードバンド、マルチメディア・コンテンツ、“e-ジャパン構想”、“ミレニアムプロジェクト”等々と騒がしい。情報化の名の下に国家予算が動き出す。これまでに少なくない数の教育用PCソフトウエア、Webコンテンツが作られてきた。さらにブロードバンドの時代に向かい、政府助成でマルチメディア・コンテンツが用意される。こうしたテクノロジー活用自体は意義ある解決策となる可能性をもつ。しかし、同時に懸念を感じざるを得ない。“与え過ぎ”、“親切過剰“とも云える教材への危惧である。家庭生活で、与えられることに馴れてしまっている昨今の子供たちには、受け入れ易いかもしれない。工夫に時間を取られる先生にとっては、ありがたい助けとなるとの見方もできる。しかしながらである。学習者自身が主体的に“作っていく態度”を育む教育が望まれている。自分で探り、考える体験のなかに関心が育まれる。
生徒が考え、試行錯誤し、自ら作る機会を奪ってしまうことにもなる懸念のある教材、学習の進め方では本末転倒である。「分かり易い」を大義名分に用意されるこれらの教材には注意が必要だ。
最後に、ある本を紹介したい。数学者秋山仁教授の講演で、彼が参照、紹介してくれた本である。「教師
宮沢賢治のしごと」(畑山 博、 小学館、1992年)。宮沢賢治が岩手の花巻農業学校で教鞭をとっていたときの話である。赴任したのが1921年12月、1926年に学校を離れるまでの4年間。当時の教え子を探し出し、彼らの記憶の聞き取りをもとに書かれている。なんと60年前の授業の記憶を呼び覚ますという困難な試みである。驚くことに、教え子の脳裏にその授業の特色が焼きついていて、学んだことを覚えているのである。そこには、“学びの仕掛け”への工夫、理解へ導く工夫の素晴らしさがある。“授業とは?”へのいくつもの解が紹介されている。
本稿で理数教育に関して回りくどい記述するのが恥かしいほどに、まさに、彼の授業には、今後の理数教育にとって大事なことは何なのかをものの見事に示唆している。
“故きを温ね新しきを知る”なかなかの一冊といえる。
(ねぎし ひでたか・米国Texas Instruments
社)