"数学が嫌われることの意味の大きさ" ― 新しい数学教育にむけて−

                                           根岸 秀孝 (1/19/1998)   

ページトップへ
 
”数学学習をとうして培われる中・高校生の潜在能力は計り知れない”。このことに賛成の教育者は少なくない。
しかし・・・・・・これまでいろいろな工夫がされてきたわけだが、これといった解決策のないままに、数学嫌いを増やし、数学の授業時間縮小が検討されるということにまでになってきている。じつに切ない状況と言える。学術的、教育学的な検討はさておき、これからの数学教育にたいする期待を記述し、これからの教育を考えていただける識ある方にお送りし、お願いする。

先ずは自分自身の中学・高校時代の数学学習の経験、親として観察した子どもの米国での数学学習も参考とし、それ以降、かれこれ10年あまり、我が国だけではなく、他の国をふくめて多くの教師・教育者の人々に接し、その傾聴と勉学のなかから、いくつかの見識をもつに至った。

数学学習を、その”思考過程”と”作業”に強引に分けてみてみる。思考過程の方については異見少なく、多くの同意が得られよう。では、”作業”の方はというと、これはいろいろな見方、考え方があろう。数学の授業、その学習、その試験という一連の今日どこにでも見られる学習のプロセスをみるにつけ、いかに”作業”が盛りだくさんかとあきれるばかりである。

数学学習における”作業”のなんたるかを挙げてみると;

  ・決まり、数理、公式、解法手順を理解して覚える。(数理を考えるのは”思考”、記憶するのは”作業”)
  ・記憶された決まり、数理・公式を、いつ、どう活用するかという”作業”のために、できるだけ多くの数学問題の種別認知とその整理整頓。(記憶という”作業”−いわゆるパターン認識”作業”)
  作業手順が”思考”されたあとの式展開と計算は”作業”。(正確・機敏にまるで機械のように)

さて、”思考”の部分は?というと;

  ・問題にたいして、何をするかという過程を組み上げる戦略。
  ・問題解決の途中で、予測、疑問、確認という”思考”がおきているか。
  ・気軽にWhat ifといういろいろな条件に気づく柔軟な”思考”ができているか。その”操作”へ手順判断ができるか。
  ・可能性を感ずる方法を、操作する戦略を立てることができるか。
  ・求められた解、考えられた内容に対して、十分な納得と判断があるか。(単に記憶・経験にのっとった手順にたいする自信だけでなく。)
  ・問題解決の過程が”自分ごと”になっているか、覚えている方法を単に利用するということだけ(”人ごと”)ではなく。
  ・そして、自ら問題を探し出す好奇心と考察。

上述した数学学習における”作業”が数学嫌いの成製起因の最たるものではないか。多くの数学授業は記憶すべき知識とその理由付けの理論という知識の、教師から40-50人の生徒達への一方通行的な伝達が行われる場に化している。数学学習の”面白さ”を、教師が、教育のシステムが、生徒から奪ってしまっている。生徒達に与えられるのは、学習時間の大分部をさかれる”作業”。問題に対する”思考”そのものの楽しさと、そのあとにくる”発見”、”解決”の喜びを味わう機会がもっと欲しい。

解決策は簡単ではないが、手はある。先ず教師は、知識伝達業から、生徒への支援業に変革することである。先生は子供たちの限りない”前進欲”を脇で支えるFacilitatorの立場。これを可能にするのがTechnologyの活用である。”作業”をこなし、示唆を視覚化してくれる道具、数学操作を生徒の思考のままにしてくれる。
そうした道具を使うことが不可欠といえる。グラフ電卓等、手のひらサイズのTechnology活用に相当な解決策がある。
米国の数学教育でこの活用と検証が進んでいる。パソコン活用の失敗のあとで。
このグラフ電卓等の手のひらサイズのTechnology活用・理解がその先進、米国でたいへん盛んになってきた。しかし、真に深く理解している教育者は我が国には少ない。5人といないのではないか。これまで知り得た識ある50人をゆうに超える諸先生方のなかで。この方たちには恐縮ではあるが、米国での授業参観の経験も豊富な下記の人たちへ耳を傾けることをお勧めしたい。是非聴取をしていただきたい。

彼らは;

大学教育者から 渡辺 信 東海大学海洋学部数学科助教授
公立機関から 清水 克彦 国立教育研究所 数学教材開発室室長
民間教育企業から 中澤房紀 (株)Naoco
(株 教育社(科学雑誌Newton発行)から分社)

昨今、多くの大学教育者、公立機関の研究者のあいだで、グラフ電卓を話題にする人が増えてきた。実に多くの報告書、ジャーナル、会議での講演を、この3-4年間可能な限り目をとうし、聴講してきた。しかしながら、単に事柄として捉えられた発言が多く、啓蒙はなされているものの、真にその価値に触る、深い理解と実践体験をもととしたものを知らない。

もう一つ大事なのは、システムの改革。ひとクラス25名の生徒。教員の年功序列、給与体系の改革である。これなくして、教師に多くを求めるということは、現実ばなれの空論。”ひとごと”あつかいで議論する識者・学者というどこかの国の話になってしまう。生徒達の目と目が輝き、数学が”自分ごと”に感ずる、そういう教育が望まれる。

文系・理系という分け方が常識化しているなかで、どうしてこのことがおこるのか。起因は中学・高校での数学の成績がそのスタートとなる、ということに異論は少ない。実務の世界にいるといわゆる文系学歴の人が素晴らしく創造的で、技術者としての才を発揮する若い人を知る。逆に、技術者として採用され、働いているにもかかわらず、かわいそうなくらい設計能力のないエンジニァがいる。単に高校のときに数学・科学の試験成績が良いだけでは実に心もとない科学・技術立国日本である。そして、文系進学をした若者のなかに、実はとてつもない科学・技術・数学の才・潜在能力を持った人たちの存在が気にかかる。こうした潜在能力が、中学・高校数学のシステムのなかでいかに多くの犠牲となっているか。国の責任の一つである教育の罪である。

”教育”というと、教え、育てる、すなわち先生が主体(主語)となる。これをどうしたらよいかという議論よりは、生徒主体(主語)の“学習”をどうするか、これがこれからの課題であろう。学び、習う、すなわち生徒にとって“自分ごと”(Ownership)がもてるような”学び”の改革が必要であろう。

”豊かに生きる力”を養うことが教育とすれば、豊かな”学習”ができる環境こそ21世紀への責務であろう。

(HN 1/19/1998)

 

     



(C) 2003 Negishi. All Rights Reserved.