"教科書という摩訶不思議な規律"

根岸 秀孝                                        
「数学教育の会」 9/14/2002 於 学習院大学  提示原稿 

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 少々古い時代の話になるが、40年程前のある都立高校での授業を思い出してみる。その時の各教科の先生たちは、自分なりの、独自な授業スタイルというか、授業運営を楽しんでいたように思い出す。一応、教科書は使っていた。しかし、思い起こすと、教科書に従うというか、教科書に添ってという授業をしていた先生はどちらかというと少数派だった。むしろ、独自のやり方で、教師の個性の発露が強ければ強いほど、そのクラスで学ぶことが鮮明となり、いまだに記憶に残っているものがある。

 その時代(1950年代後半―1960年代)、産業界では、著しい変化と成長が始まっていた。勿論、行政からの“規制”と“保護”はしっかりと存在し、それはつい最近まで続いていたわけである。そのなかでの独自性のある経営と工夫が盛んであった。そして、産業界は国際的に優位性を確保し、為替の恩恵もあったが、たいへん強い立場をこの30年の間に築いてきたわけである。しかしながら、20年前ぐらいからか、少々おかしな傾向も同時に進んでいた。例えば、ある規模で売上高が上昇方向にあれば、3−4 %という低い利益率でも、経済界では許されてきた状況があった。欧米との比較では、この程度の利潤では相当低い業態である。さらに大企業の多くは高額の投資のために負債をかかえていた。「みんないっしょに」との規範が故か。その後、産業界(政府外郭法人を含め)へ出費する国政予算は増加し続け、行政誘導型の多額の助成金が使われてきた。つい最近に至っては、金融界で、彼ら自身の失策ともいえる状態であるにもかかわらず、国庫からの援助が起きている。子供の失態を親がお金でカバーするという構図である。こうした“甘えの構造”はわが国の社会情勢のユニークさともいえ、家庭にも影響をもたらし、さらには学校社会にも影響してきたようだ。行政予算の使い方として、毎年、翌年度の予算確保のための予算消化を大事にしてきた。各年の活動変化をもとにした“ゼロ・ベース”予算を行っている行政省庁は、地方自治体をふくめ、皆無に等しかったのではないだろうか。既得権の必要以上の維持で、前例を大事にし、新たに特異例を作ることの難しさ。これがわが国のこれまでの特徴といえよう。行政、産業界だけではなく、大学運営も然りである。地方自治体を母体とした学校運営はまさに、こうした悪癖の犠牲ではないかとしたら言い過ぎだろうか。

 ここで、教科書の話題に戻る。各教科書出版社では筆頭執筆者の確保、教科書編纂、その検定、発行、教科書選定、その選定時における旧態的な出版社の営業策・・・・・・。 ここに上述のわが国特有の 社会規範? が作用するわけである。「あぁー嘆かわしき仕組みよ!」といえる。
国から要望される一冊のコストを考えれば、各社の教科書のページ数とその内容はあまり変わらない。このページ数の限度のなかで苦労する執筆者の不満も耳にする。教科書出版社としては、採択されるか、されないかが命運を左右する。採択されれば、その教科書準拠の参考書が売れるわけである。ページ数が少ないが故に存在する商業機会が用意されている。こうして出来あがる教科書であっても、過去に存在した(現在でも勿論)気骨ある先生方は、単にそれに従うだけでなく、それぞれに工夫をこらした授業を進めていてくれる。しかしながら・・・   多くの先生方は、教科書に頼って授業を進めて何年間、創意工夫をするまえに、限られた時間数で教科書の内容を消化していかなければ、とのプレッシャーを持っていよう。それが、無意識のうちに存在する教育界の社会規範なのだから。受け持っている生徒各自がどのように成長しようがしまいが、教員の査定・給与はあまり変化がないのが実情であろう。学校運営を経営としてとらえる私立学校ではそういうわけにはいくまいが。そして、この10年の間、“理科離れ”、“数学嫌い”という負債を蓄積してきたのではないだろうか。
 あたりまえのように使われる教科書が、誰もが気が付かないかもしれない状態で、“規律”として存在しているのではないだろうか。呪縛といってもよい。教科書は、指導要領の主旨の表れであり、検定制度とともに、ある種の約束事としての使命を持っていることは確かである。国が最低これだけは教えて欲しいという基準であるとすると、教育社会での規制といえる。 

 産業界では規制の緩和、前例打破、より良い方向への創意工夫とチャレンジが盛んに起きている。真の公正を踏まえて、優劣の評価が、すなわち、企業の存続が、国際社会を前提に起きている。新しい社会規範が作られている。  
 教育界では、上述の“規律”に従うだけでなく、利益享受者・生徒各自の真の恩恵となる教育、強いては、社会の恩恵となる教育を思うとき、何処で、誰が、一歩も二歩も先を捉えた教科書を作るのだろうか。新しい規範のもとで。

 ここにきて、文科省の検定を受けない教科書が出版されてきた。非常に頼もしい動きである。先ずは、中高一貫の新しい学校形態がその引き金の一つとなっているようだ。とくに数学では6年間の教育をどうしていこうかとの新しい条件下で、その内容を見直す機会となっている。テクノロジー活用を踏まえ、生徒各自の活動的学習を狙った教科書も発行される。その教科書の選定が注目される。勇気ある教科主任と、それを認可する校長の力量が問われる。「これまでと同様で、なんとか改善を」との、過去の社会規範から抜け出せない学校ではそうした教科書を活用できないのは明白である。まずは、私立学校のみの選定になろう。それも“気骨ある”学校に限られよう。しかしながら、こうした動向は、新しい規範作りの始まりといえる。

 「教育は社会の鏡である」という見方がある。先に述べたようにこの四半世紀の社会情勢が教育に反映されてきたのも事実であろう。そう思うとき、社会が変化しなければ、教育も変化出来ないのだろうか? どうもそういう見方に傾きがちである。では、わが国の社会は変化するのであろうか。僅かな兆しを感ずるのも確かである。否、変化をしなければこの国の今後は在りえないという見方も多い。社会の変化とともに教育の改善も期待したい。社会が、大人が変化出来ないでいて、教育の改善を云々するのはいかがなものであろうか。耳の痛い話である。上野健爾先生が講演で紹介された林竹二先生の言を思い出す。「自分が変わろうとしないで、子供にだけ変わることを求める・・・・」

 教科書がどう編纂されていようと、そうした規律に縛られることなく、教育の利益享受者である学習者の立場を大事にし、そのとき、その時の生徒の反応を敏感に取り入れて授業を進める先生方も、少数ではあるかもしれないが、現在も存在することを知って心強い思いをしている。


(HN 9/14/2002)

 
     



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