学習指導要領は“従う”ものではなく、“活用”するもの。

根岸 秀孝
早稲田大学数学教育会誌 1998年 第16巻 第1号 掲載

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はじめに:
こんな話を聞いたことがある。 科学教育に関して。 小学校の理科実習でひとりの生徒が時間後、真顔で先生をつかまえた。 “先生、お願いがあります。 今日 ぼくがこれ触わったこと 絶対にママに言わないでください。絶対に。“
この事の背景に相当重大な問題が潜在している。子どもの好奇心、このことこそ科学教育の原点であろう。 それが虫食まれいる。 母親のとにかく安全、とにかく清潔の家庭教育である。“汚いから触わっちゃダメ。“ “危ないからダメ。“ これに加えて父親の無関心がある。
学校教育が始まるまえの、家庭での教育の大事さを再認識する。 感受性の強い4- 6才の子が家庭でインプリントされることの大事さは教育の原点であろう。
数学教育に間接的に関わる知人の話である。彼の子どもは小学校2年生。 自分の子がどういう算数をやっているのか気になって、授業参観の機会を期待していた。で、その日、目の前にしたクラスで、仰天! 子どもたちの自然な質問、好奇心、惑い。なかには、実に数学的な質問。それらのひとつ、ひとつが、一限のクラスのなかでじつに見事に抹殺されていくのを目にしてしまった。 その後、彼の家では、算数だけはできるかぎり補習の手伝いをはじめたそうだ。 せっかくの数学的考え方、自由な発想を大事にしたいということで。
今年高校3年、来年大学進学の女生徒がいる。この子は数学が嫌い。嫌いどころか憎みまで感じている。 このいやだった数学が終わることでとにかくホッとしている。 そして4年後に就職。 8年後の結婚、10年で出産。 おきておかしくないこの子の将来である。 そこで15年後、2014年。 この母親がどのようにその5歳の子の教育に絡んでくるだろうか。少々恐い話しとなろう。 数学嫌いの高校時代に持った感覚の潜在意識。 自分の子どもが好奇心のままになにか小物で数遊びをしていても、悲しいかな、適切な手助けができない。 そうであればほっておけばよいのに、“カズたぁん、またまちがえたじぁない、だめねぇー。”
この母親が小学校の教諭職についていないことを切に願いたくなる。
教育は10年の計とかいわれる。 いや15年、20年の壮大なプランである。 昨今、金融界で見られるような“先送り”は絶対に避けなければならない。 米国では、数学教育でこの“先送り”をやらなかった。(後述)
数学教育界と金融・銀行界の類似性がたいへん気になる。 横並び主義で年月が経ち、規制緩和も遅々とした動き、さらには“含み損”、“焦げ付き負債”と。 他に非をみて己を正さずでは取り返しがつかなくなろう。 ちなみに、数学教育における含み損と焦付き債権はなんといっても“数学嫌い”であろう。 これは将来に悔いを残す“負の財産”にほかならない。 今日の今、親、教師、学校、大学、地方・中央行政が同時に何かをやりださなければならない。


学習指導要領 :
これまで教育行政の流れのなかで、文部省から出される指導要領はあくまでも順守し“従う”ものとの認識がある。その仕組みは教科書検定を抜きには考えられないところからくるのであろう。
先回の指導要領に深く携わっておられた本大学の寺田先生のふりかえり講演の中でも、その内容の主旨、狙いが必ずしも教科書に反映されず過去のカリキュラムをひきずってしまったが故か、 せっかくの新しさが十分に現場に伝わらなかったきらいがある、とのご指摘を耳にした。
今回のそれも、賛否両論が存在するのは自然であって、むしろ大いに議論が生れるべきである。 もしも議論が少ないようなことになれば我が国の数学教育界はそれこそ死期を迎えて静かに消滅することになる。大事なのは各論に入る前に、その主旨が納得できるものかどうかが先決となる。 筆者の立場は、この“前書き”を是認する。
大事なのはその主旨、方針に則りいかに細目を活用し、新しいカリキュラムに昇華できるかどうかが問われる。それには文部省が用意する内容にいかに自主的創意工夫の余地が用意されているか否かである。 この点、先回同様、相当な巾で工夫の余地を感ずる。
さてここで、カリキュラムという表現がよく使われるが、このことばの定議がいろいろあるようなので、本文では下記をその定義と仮説する。 “学習指導要領の主旨、方針を基礎として構築し、編集される教科書をもってしてカリキュラムとする。” 異論はあろうが、他国のそれと比較するのに便宜がよく、この定義を筆者はよく使っている。
この定義を前提にいえば、いかに優れた教科書が必要かということになる。 挑戦の壁は厚い。 国庫予算、地方自治体における何十年にもわたる予算の仕組みのなかで、一冊の教科書のコスト常識ということも大いなる壁のひとつであろう。
内容そのものの改革が、単に指導要領に“従い”、過去の慣例的編纂を踏襲していては新しいカリキュラムが起きようはずがない。 新しいカリキュラムに求められるのは、単なる知識伝達式の授業から、生徒が中心の学習をどう導いていくかということに重点を置くべきあろう。 “知識伝達の場”と化した授業において、数学学習は生徒たちにとって“人ごと”であり、好きでもないのに受験のためにやらなければならい学習となってしまう。 このような状況のなかでは、数学的なものの考え方、その大切さ、学習をとうして“生きる力をつける”などとは到底結びつかない教育となってしまう。 生徒にとって数学学習が“自分ごと”に感ずるような授業が求められている。 この変化は、そうした指向の努力経験のない教師にとってはたいへんな変化を強いる事になる。 各国で起きているこの種の変革に、テクノロジー活用が必須であることを知らされる。
それでは、“従う”ことから抜け出し、“活用する”カリキュラムとはいったいどういうことをさすのか。 これまでに学習項目の分類に則って、指導要領は記されている。 この学習項目ごとに、教科書を編纂してしまったら、何ら新しいカリキュラムにはなってこない。 先ずは、なぜ生徒達が数学を嫌いなのかを考えてもらいたい。 簡単な例でいえば、やらされる数学問題と、彼らの生活の実体験とのあいだに、何ら関連性を感じ取れないことなどがその典型ではないか。 例をさらに単純にするために、小学校算数で観てみよう。‘平均’の数理の理解で、きれいな数字を5つ、6つ用意し、それらの和を、たした数で割ると平均がでる。 なるほど、これで知識としての‘平均’といえる。 子どもにとっては、“それでどうなの?”ということになる。 これを身長のクラス平均という題材にすればどうなるか。 小学生高学年では、身長は大事な関心事のはず。 おそらく、小数点一位までの自分の身長は関心事。 145.5 cm。 さて、このような数字を32人分の足し算ということになる。 そして、割り算。 うんざりの計算となる。 早い子、遅い子と、パニックになる。 で、電卓というテクノロジー利用ということになる。 おこづかい計算では慣れたもの。 さてこのクラスの平均身長は。 小・中学生のグラフ電卓ではそれぞれの棒グラフも視覚化出来る。 自分の関心ごとを、数学をとうして認知できる。 中学、高校数学でも同様で、身近な現象を数学できる。 小学校では算数を、ああかな、こうかな、と“いじっていた”。 タイル、お弾き、などの教具をとうして。 中学、高校に進むにしたがって、数学を自分で“いじる”機会を失ってきた。 好奇心と探求心から、ああかな、こうかなと思い付いても、ノートと鉛筆ではその気になれない。 まあいいやということで、“いじらず”じまい。 ホンの一部の所謂出来る子と教師の数学でおわってしまう。 ここで楽しめる筈の数学がつらい数学になっていく。 テクノロジー活用にこの解決をみる国がふえてきた。 教える側中心の数学が学ぶ側への数学となる回帰である。
この学習者主体の数学、学ぶ者が“自分ごと”に感ずる数学は、教師の役割の180度に近い変化を要求する。 先生は、教える人 ? 知識伝達業から、生徒間の学習の支援者、学習のなかに楽しさを感じることを導いてくれる援護者、同士、協力者とならなければならない。 行政のいうところの個性を重んずる教育、ということにつながる。
1クラス40人を超える現状から、25人以下の小クラスも重要な要素になる。 ある府都県で、高校の小人数グラス編成が企画調査に上ったことがあったが、なんと私立高校連盟の耳に入り、その筋をとうして潰されてしまったということを聞いた。 なんとも情けない話ではないか。 ここでも、いったい教育は誰のため、という基本的なことを問いたい。
ここで米国の例をあげる。 10年前にさかのぼり、数学教育の改革の節目があった。 理数離れが国家的危機としてとらえられ、 全米大学協会、数学会、数学教師連盟、テスト機関、加えて産業界からのヒャリングをもふくめ、改革の努力が始った。 まずはコンピュータ活用が盛んに研究された。 しかしながら、この試みは現実性、便宜性の欠如が故に挫折に追い込まれる。 我が国でも何年にもわたる試みが文部省の助成のもとに進められた経緯がある。 米国ではこのテクノロジー活用の価値とそのパワーをより実践的に現実化する活路が見出さされた。 オハイオ州立大学の二人の教授 Bert Waits, Frank Demana の研究グループを核として現在では T^3 (Teachers Teaching with Technology) として知られている全米におよぶ活動がある。 手のひらサイズのテクノロジー、すなわち数学教育専用の電卓、コンピュータ活用の教育である。 教具、教材はもちろんの事、教師の再教育を含めるこの活動はその勢いの劣れを知らない。 世界の3大電卓製造会社のうち 2社を有する日本でもこの動きにむけて、教育用として製品を用意した。しかしながら、技術者向けに技術者中心で開発した電卓をベースとしたそれは、米国の教育者が中心に開発した数学教具には及ばず、世界標準といえる TI 社製が現在、日本をのぞいて世界の数学、科学教育界で主流となっている。
この大いなる動向は、本気で数学教育改革に対する国家的な規模での取り組みと全関係者の驚異的な熱意に他ならない。 そこにもう一つ重要なのがカリキュラムと教師の再教育である。 このカリキュラムだが、米国には、ご存じのように、我が国文部省のような中央集権的政策はない。 NCTM (National Council of Teachers of Mathematics) がその基本方針、助言をスタンダードとして教育界に呼びかけている。 これに呼応して各教科書出版社が創意工夫を十分にもりこんだ特色ある教科書を大学教育者とともに編纂している。自由な発想と、差別化をもった、それぞれ特色ある教科書、すなわちカリキュラムが創造される。 これらが各州、各学区単位、あるいは学校単位で選択できるような仕組みがある。 生徒達の意識調査で、数学の学習が好きであるという認識の増加はその教師、学校、学区の誇りとするところで、工夫、努力が認められる教師はより上位の講座を受け持つことができ、そうでない教師は毎年の予算変化で休職を余儀なくされる場合もある。 個性を大事にする教育には教師の個性も特性も大事にされる。 我が国でも“個性を重んずる教育”をと聞こえてはくるが、個性的に創意工夫に熱心な先生が浮いてしまって、というようなことを耳にするにつけなんとも情けない気持ちになる。


教科書編纂 :
さて、新教科書がこれから編纂されるわけだが、この仕組み自体に改革の余地はないものだろうか。 これまで多くの先生方に耳を傾けてきたが、そのなかで知り得たことは・・・・・・・・・
教科書出版社では、編集者、執筆代表者 (多くの場合、大学の教育者)、執筆者集団 (現場の教師が多くをしめる。)がチームを組んで編纂が行われる。 出版社には営業と称する部門が存在し、この機能が出版社の個性ともなるようだ。 編集チームは定期、不定期に研究会、勉強会をひらき、より良い教科書作りに取り組むことになる。 編集者に言わせると、創意工夫を折り込み特色ある編集を計画しても、営業部門の声が故に思い切った内容は薄められていく、という現実があるようだ。 さらに、おそらく編集者のなかで、変にしみ付いてしまった営業感覚から抜け出せず、それがブレーキにもなっていることがあると聞く。 新教科書が採用されるかどうかはその出版社としては死活問題になるわけで、さもあらんと理解できる。 さらに検定による修正を経ての結果は? 各社横並びの、どれを選んでも大差のない何冊かの新教科書出現ということになるようだ。
さあここで、いままでの営業力がものをいうことになる。 どの教科書を選んでもその功罪に大差はなく、差別化の少ないいくつもの似た者が発行されると出来あがる前から解っている。 こうした前提のもとに採用にむけての努力がはじまる。 講習会、研修会と称して、各県地区担当の営業が、どこどこ大学の何々先生を囲んでというかたちの会を催おす。 こうした勉強会のあとは懇親会。もちろん何々先生には講演の謝礼。出版社主導の会である。 さて、このような営業がやり難くなったのが昨今の社会事情。 上級公務員のモラル問題を対岸に見、かような営業活動は過去のものになってきた。
これからは、“本来こうあるべき”かたちが期待できる時代に入ってきた。 全体の仕組みの中で、どこかの節、ステップで事が起きれば思いがけない改革がおきることになる。 産業界では何年も前から日常茶飯事におきていた改革だ。
もっと度量の広い検定から、検定廃止への規制緩和が求められる。 今回の指導要領においても、各地方自治体、各学校に自主性が喚起されいる。 個性を重んずる教育 ? 個性的な先生、個性的な学校、個性的な自治体学校行政を認めずして、生徒の個性を大事にする教育とは? この姿勢に矛盾するような検定であれば、大いに変革が期待されるし、教育学会上げての要望があってしかるべきである。 もっとも、大学人の人事権を有している文部省に対し、強いことを要求というのも無理なはなしとはいえるのだが。 しかしながらである、最終利益享受者である子供たちのために、“含み損”、“先送り”は、もはや許せない時になってきた。 重ねての先送りで、隣国の韓国、中国に追い越されることが容易に想定できよう。
教科書編纂に携わる大学教育者、教科書出版社、教科書編纂者の諸先生方、この機会に是非とも、今後 10 -15年と影響をおよぼす筈の新教科書で、なーるほどと唸らせるものを創出してもらいたい。 まずば手にしてウキウキするような教科書を。


総合科目 :
実に大事な試みといえる、うまく活用できればとの条件つきで。 数学の先生たちのなかには、数学時間の減少のなかで、これを数学主導で計画しようというようなことをもくろんでいる、あるいは、情報との関連でとか。なんとも手前勝手な過去を引きずった考え方かとの思いである。 この講座はその主旨を大きくとらえ、すなわち“活用”することによって、たいへんユニークな授業が設計できる。 約3年ほど前から想いつづけているアイディアがある・・・・・・・・
学期ごとに各教科の先生同士で、生徒、すなわち学習者にとって益となり、創意工夫をもってして、これまでにはあり得なかった講座を創造する。 これは究極的には、ひとつの理想的教育の発芽に成り得るものといえよう。そのためには、常に教師の切磋琢磨が望まれる。
現在の教育システムのなかで、文系、理系と分けてことを処する弊害がみえている(東京理科大学数学教育会40年記念機関誌 117ページ参照)。 要するに数学の深い理解はさておいて、中学校あたりから、単に数学テストの成績の善し悪しをもってして、本人も、両親も、担任の、進路指導の先生をふくめ、この子は文系、この子は理数系と分別しはじめる。 本人は数学の教師と波長が合わないだけで、テストにひびくこともある。その子の数学的あるいは科学、工学の潜在能力の評価そのもののように扱われては不本意このうえない。 どこで、いつ、このような風習ともいえる認知がはびこったのか、むなしい思いがする。子どもの能力はいつ顕在するかは計り知れない。 その子、その子にとって、自分は何に向いていて、何に関心が高いかは教科のテストで察知できるものではない。 出来るだけ多くの学習、体験、試行錯誤から認識が深まるのが自然といえる。 ではそうした機会が学校教育のなかに存在させられるかである。 手はありそうだ。
そのアイディアとは融合、統合、総合科目。例えば、音楽と数学の融合教科。 音楽と数学の教師が案を練る。 数列をある程度理解し、任意の、あるレベルの規則性をもった数列を創出する。 この数の組み合わせセットを、サウンドボードをそなえたパソコンに入力する。 作曲である。 試行錯誤の成果はおそらく、素晴らしいメロデイ。 作曲で音楽の単位 0.4 と数列履修として数学の単位0.6の取得とする。 英字新聞の切り抜き読み込みで英語読解単位 0.5、社会系の単位0.5となる。 米国の数学教科書から問題を解いて、英語読解0.4、数学0.6 単位。 数学用語を英語で認知。 国際性を問われている教育にはまさに一石二鳥。 数学と化学、物理等は当然の融合。 役立つ英語、役立つ数学。一面的な既成概念打破の数学教育。 “数学って、けっこう役立つんだ。”
各教科の専門性は各教師の責任、さらには各教科の新しい学習形態への創造的開発、生徒の関心を喚起する授業が生れてくる。 これまでの慣習的講義を10年一日のように続けていた先生方にとっては大変化が求められる。 教師側の研鑚なくして、教育の改良など有り得まい。
こうなってくると、いかにその履修成果を記録し、管理していくかが、カギとなる。 インフォメーション・テクノロジーの時代である。 このいわゆる IT の導入が最も遅れている分野のひとつである教育界への福音となろう。 システム設定の専門家に、無意識に支出されている無駄な学校経費の一年分でも払い、半年もあれば、システム完了は夢ではない。 二人、三人の先生方が学期毎に新しい講座を策定し、パソコンに打ち込む。先生たちの間で創造的思考が芽生える。 教師間の時間重複のチェック、 教科主任の認可、登録、生徒への案内。 全て IT パワーが助けてくれる。 生徒は、 廊下にあるキオスク・パソコンで、履修の進展のチェックもオンライン。 パスワードで成績閲覧も。
インターネットがつがなり、ホームページが整ったことをして IT 導入との誤解ともいえる認識が蔓延ってはいないだろうか。 学校管理運営の根幹そのものに使われて、はじめて IT 導入といえよう。
時間割の学期ごと、年間の計画、それを職員室のハク版に色とりどりのマグネットタイルでコツコツと全教科の時間割をやっている担当先生の専門教科の研鑚は? あるいはそれを専門にしている事務職職員の季節的短期多忙と、新聞・お茶の日々のギャップ。 失礼! 問題がそれて。
こうした融合、複合、総合学習のなかから、生徒たちはそれぞれの個性を発見し、“なるほど、自分がやりたいことが見えてきた” との認知が喚起できよう。
自分が何であるか、いまどうなっているかを察知できるように手助けするのは教育の大事な目標の一つのはず。
教育上最大の“たいせつ”は、常日頃、張り切って新しいことに挑戦している先生の目と態度に輝きがでる。 これを感じた生徒たちは無意識のうちに鼓舞される。 10代の感受性の鋭さは大人には及びもつかない。 張り切り、頑張っている先生たちを観ている、知っている生徒たち。 これこそ教育現場の輝きであり、 生活指導教師のさぐりの目から学校は決して良くならない。


大学入試 :
受験勉強と高校教育の問題が“先送り”になっていて何年にもなる。紙面の都合から、一つの実話で問題提起のみとする。 東京にある国立大、工学の教授との会話である。 “最近入学してくる学生たちだが、数学の理解度の低さが目立つ。 うちの大学にくる連中だから偏差値は高い筈なのにねえ。 いったい、高校では何を教えているのかねえ。” ここで、筆者は少々 ムッときて、“他を批判する前に、先生の大学では本当に欲しいのはどういう生徒で、そのためにどういう選考をしたらよいか、真剣に取り組んでますか?”、 “是非、欲しい学生を厳密に選考してください。でないと日本の将来に不安を残しますし。”


早稲田数学教育学会の皆様へ :
こうしていろいろ考えてきて、ここで本学会の聡明な諸氏に願いを述べさせていだだく。
本大学の伝統のひとつに、つねに次世代の潮流をおこしてきたパワーがある。 過去のしがらみにこだわらず“本来あるべき”は何かを実践するパワーがある。 数学教育界は総じて温和な動きでこの何十年が過ごしてきたと聞く。 教育学、認知学、学習評価 そのほか多くの分野の専門家が各大学の数学教育にはひしめいている。 その成果も大いなるものであったことは理解できる。 しかしながら、 中高校生の数学嫌い増加の現実もまた事実である。
ここで、早稲田大学の修士コース 数学教育では、いかにこれからの時代に則して“実践数学教育”- Practical Instruction - を進めていくか。 この分野で確たる独自性をもった数学教育の C of E (Center of Excellence) を構築していただきたい。 早稲田である以上、“実践”である。 21世紀を担う数学教師のメッカとして。

お互いが批評家であることが許される時代は終わった。数学教育の全関係者がそれぞれの立場で動き出さなければ遅れをとる。 筆者は新しい学習のあり方と、その道具をもって、約5年の活動をしてきた。 さらなる研鑚を決意している。

                                      1998年 11月 3日 文化の日 (HN) 

     



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